弾圧への報復、そして再び弾圧……
流血のスパイラルが続いている
1995年7月7日
ホテン地区ホテン市のベイトゥラ(Beytulla)モスクのイマム(イスラム教のモスクの指導者)アブドゥケユム・アブドゥミジット(Abduqeyum
Abdumijit)が当局によって解雇され、代わりにメットクルバン・ダモラハジ(Metqurban DamollaHaji)が任命された。金曜日の礼拝の開始が遅れたので、市民はアブドゥケユム・アブドゥミジットが逮捕されたことを知った。彼らはさっそく抗議行動を起こし、ホテン地区政府と公安局の前に集まり、宗教の自由を要求した。当局は無論これには応じず、警察、役人との間で衝突が2時間も続いた。
当局は侵略軍、武装警察、公安警察など武装部隊を動員し、手榴弾、機関銃、ピストルなどを使って鎮圧し、その日のうちに3000人のウイグル市民を逮捕し、刑務所でひどい拷問をした。
1995年8月14日
東トルキスタンのグルジャでウイグル民族の伝統的な“メシレップ”と呼ばれる行事が、盛大に行われていた。そのころはサッカーも流行っていて、町は活気にあふれていた。しかし、そのあまりの盛り上がりに、侵略者は危機感を抱き、サッカーの試合の開催を許可しなかった。これにウイグル青年が不満を持っただけで、当局は逮捕の理由を得たとばかりに、メシレップのメンバーやサッカー好きな青年を数千人逮捕した。グルジャ市民は怒り、報復の準備をはじめた。
1995年9月27日
中国侵略者はカシュガル市で公開裁判を開き、政治観が誤っているという名目でウイグル青年数人を死刑した。不当な死刑に腹をたてたカシュガル市民は抗議のデモをしたが、武装警察、公安警察、安全局の警察などがデモ参加者を逮捕した上、カシュガル市民の自宅に夜中に入り込んで捜査し、若い男を数千人をむりやり逮捕したのである。
1996年3月12日
中国侵略者の血生臭い弾圧に腹を立てたカシュガルの報復グループが、カシュガル地区に“視察”に来た侵略軍の張司令官とウイグル自治区の傀儡主席アブレット・アブドゥレシティ(Ablet
Abdureshit)など、侵略者とその協力者を暗殺しようと計画し、彼らが通る大きな橋に時限爆弾をしかけた。惜しくも、30分前に爆発してしまい、警備員の漢人一人が死亡したに留まった。
1996年4月3日
ホテン地区ケリヤ県政府の計画生育委員会のオフィスビルが燃やされてしまった。
1996年4月17日
独裁、侵略者共産党政府は東トルキスタンで“百日間の厳打”を行なった。厳打とは、日本語では《犯罪撲滅キャンペーン》ぐらいの意味だが、中国では政権に都合の悪い人間をえん罪で逮捕することである。分裂分子、反動分子、パントルコ主義者、パンイスラム主義者などの政治帽子をかぶせて、4月17日に東トルキスタン全国で1万人以上のウイグル青年を逮捕してしまった。ホテン地区カラカシ県だけでも、一日で114人を逮捕したのである。こういう政治帽子のでっちあげは、共産党侵略者が東トルキスタンに来てからずっと続いている。
1996年4月24日
東トルキスタンのアクス市とトクス県の間に乗用車でアクスに行っている武装グループのメンバー6人が前もって捜査していた5台の軍事トラックで来た侵略軍、武装警察と戦って、警察3人を射撃し、20人が負傷した。組織の乗用車が爆発され、メンバーは射撃されたしまった。
1996年5月1日
アクス地区アワット(Awat)県を始め、各県の壁に「中国侵略者を東トルキスタンから追い出そう」、「共産党独裁者を消滅しよう」、「チェチェニスタン革命万歳」などのスローガンを書いたビラが貼られた。捜査に来た警察がウイグル青年によって殴られ、意識を失うほどのケガをした。
1996年5月5日
ウルムチ市解放南路食品会社の近くにあるウイグル人の住宅に潜んでいたグループが漢人警察と衡突し、警察2人とウイグル人2人が死んだ。グループのメンバーのアブドゥレヒム(Abdurehim)がウルムチ市化学工業工場のアパートで武装警察に包囲され、逮捕された。
1996年5月8日
カシュガル市ケレムバグ(今のトゥメン河ホテル、パキスタンとキルギスタンに定期バスが出ている国際バスターミナルの前)のバザルで商売するウイグル人肉屋がいた。当局の税務局、工商行政管理局の役人が権力を傘に再三彼を脅し、肉の代金を踏み倒すので、肉屋はついに彼の首をナイフで掻き切って逃亡した。
1996年5月12日
中国全国政治協商会議の副主席であり、カシュガルエイティガルモスクのイマム(指導者)で、中国共産党侵略者と協力し、ウイグル民族の文化、宗教の自由、経済権益を侵略者に安売りして、産児制限にも簡単にサインしていた叛徒宗教家ハルンハン・ハジ(Harunhan
Haji)が5月12日朝の礼拝にエイティガルモスクに行く途中で、息子と一緒に襲撃された。息子は数日間後に死んだが、ハルンハン・ハジは当局の非常な優遇のお陰で、病院で高度な治療を受けることができ、少し回復してから北京の病院に移され、今まで生き残っている(写真参照)。
治療後のハルンハン.ハジ
この事件で中国侵略者は驚き、傀儡協力者に対する優遇を強め、彼らを“愛国宗教人士”とほめ讚えているが、東トルキスタン国民は侵略者に協力し、ウイグル民族の土地と全ての利益を失わせる人形役人を敵視し、いつでも報復できる準備をしているのである。
それに対し、この事件が起こってから、侵略者政府は疑わしいというだけで数百人のウイグル青年を逮捕し、刑務所で殺害したのである。
1996年5月13日
タクラマカン砂漠に逃げた武装グループを逮捕するために侵略政府によって派遣された4機の軍事ヘリコプター、5台のジープ、30頭の駱駝で砂漠に入った漢人兵士は、逆に武装グループの襲撃を受け、漢人兵士5人の遺体を持って帰るはめになった。
1996年5月17日
アクス地区のクチャ県、トクス県、ケルピン県のグループが合流し、必要な武器を用意して、アクスの北側に駐在する侵略軍基地を襲撃した。弾薬庫を占領し、武器を入手し、侵略軍と2日間戦って数百人の漢人兵士を殺害した。侵略軍が慌てて戦車、大砲で襲撃したものの、ゲリラ2人しか殺せなかった。その後6人のウイグル青年はゲリラ戦争を続けて犠牲となった。数人のゲリラは負傷し、捕虜になったが、ほかのメンバーは無事に逃走したのである。
1996年5月19日
ウルムチ市ドンコウルック(Dong Kowruk、中国語で“二道橋”、ウイグル語から日本語に訳せば“丘橋”、ウイグル人が多い地区である)の周辺で、漢人運転手が7歳のウイグルの子どもを轢き殺した。しかし、漢人交通警察らの保護で逃げようとした。
これを知ったウイグル青年が怒って、警察と4時間戦ったのである。厳しい戦闘が続いて、ウイグル人が集まってきたので、当局は戒厳令を敷いて、戦闘を鎮めたのである。戒厳令の後12人のウイグル青年を逮捕したのである。
1996年5月27日
ウルムチ市“団結劇場”の裏側に位置する当局の“国防賓館”を爆発させる準備をしていた
グループが、2つの鞄に入れたダイナマイトと一緒に逮捕されてしまった。
1996年6月
1996年6月にアクス地区青松セメント工場の漢人工程師8人がアクス地区ウチトルパン(Uch Turpan)県内の山地で資源を調査(宝探し)している時に、報復グループに捕まえられ、7人が殺され、一人が解放された。当局が緊張し、軍事トラックで侵略軍部隊を派遣し、ウチトルパン県の山地で報復グループを弾圧しに行った。侵略軍と武装グループが山地で激しく戦って、多くの侵略軍兵士が死亡、負傷し、十数人ウイグル青年は全員射撃されてしまったのである。
1997年2月25日
ウルムチ市で漢民族が乗ったバスを爆発すした。
侵略者の不正義な逮捕、弾圧に対する報復活動が増えた。ウイグル民族にとって中国共産党、漢人侵略者は悪魔に見えるのである。
中国共産党政権のトップで、東トルキスタン独立運動を弾圧する指示をしてきた鄧小平が1997年2月21日死んだ。そのお祝いとして、ウイグル報復グループが2月25日当局によって行われる葬式に合わせて、ウルムチを中心にグルジャ、アクス、カシュガル、ホテン地区の地下組織が同時に報復運動を広げ、東トルキスタンの独立を実現させようと計画を立てたのである。
2月25日報復グループはウルムチ市内の2路、10路、44路のバスを爆発した。9人の漢人が死んで、68人が負傷した。(写真参照)
爆発された10路の市内バス
侵略者の警察が“調べている”
1997年8月
アクス地区オンスー(On Su)県ボズドング(Boz Dong)郷でエベイドッラ.ダモッラ(Ebeydulla Damolla)の指導下で報復グループが当局の警察の制服を着て、牧民の鉄砲を集めてから、当局の武装警察、公安警察を襲撃し、6人の警察が死んで、多くの警察が負傷した。報復グループの指導者のエベイドッラが捕虜され、無期徒刑になって、ウルムチの六ダワン刑務所に入れられた。ほかのメンバーが戦場で射殺されてしまったのである。
(続く)
ウイグル太郎
東トルキスタン情報センター
2004年4月27日
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