|
|
EAST
TURKISTAN INFORMATION CENTER |
|
Freedom, Independence and Democracy for East Turkistan !
|
|
INDEX: |
|
歴史 |
|
WUNN
NEWSLETTER |
|
ARCHIVES
& PICTURES |
|
人権 |
|
ETIC
REPORT |
|
生態環境 |
|
UYGHUR
ORGANIZATION |
|
REAL MEDIA FILES |
|
ご連絡下さい |
|
GUESTBOOK |
|
DAILY WORLD NEWS |
|
|
|
|
東トルキスタン情報センター 2002
|
|
|
| | 東トルキスタン | | 中国 |
|
台湾 | |
国際 | | |
|
2002年12月16日 |
東トルキスタン共和国
1884年までカシュガリヤ国があって、首都はカシュガル市で、ヤクプベグがその王様だった。1884年中国の清朝がカシュガルヤに侵略してきて、ウイグル民族の国であるカシュガルヤに「新疆」という名前をつけ、軍事、政治中心をカシュガル市から8km南のイェギシェヘル(Yengisheher)に置き、イェギシェヘルを疏勒と呼び、首都のカシュガル市を疏府と呼ぶようになった。
カシュガルヤが新疆に改名されてからというもの、清朝政府や侵略者に反対運動をした人々を弾圧し、農民から高い税金を取り、反動政権を続けていた。カシュガルヤの民は清朝の針圧の下に置かれた。清朝の植民地になったカシュガルヤの民は清朝侵略政権に対する独立を始めた。1912年清朝が歴史舞台から倒されてから国民党の「中華民国」が成立され、カシュガルヤを続けて「新疆」と呼び、ウイグル人を「文盲の状態において支配する」政策を実行させ、1883年から始まった現代学校教育を禁止し、1929年まで17年間ウイグル教育を許さなかった。ウイグルインテリを弾圧し、ウイグル農民から高い税金取りながら義務労働させていた。例えば、中央アジアとトルコに留学してから東トルキスタンのカシュガルに戻りムハッメットエリ先生(1901年生まれ)をカシュガル市ヤルバグにある国民党の刑務所に入れて、300人のウイグルインテリと一緒に機関銃で射撃し、殺害してから上にガソリンをかけて焼いてしまったのである。
清朝の酷い民族圧迫に反対したカシュガルヤ農民が20世紀の初めにテムルハリファをリーダーとしたクムル(ハミ)農民蜂起を起こした。1931年ホジャニヤズ.ハジをリーダーとしたクムル農民蜂起が起こり、間もなく全カシュガルヤに広がった。同年2月13日ホータンでムハメットイミン.ブグラの指導下で蜂起が始まり、1933年4月11日ホータン政権が成立し、それに続けてクムル、トルファン、アクス、クチャ、カシュガル地区で蜂起が広がり、1933年11月12日にサウットダモッラの指導下でカシュガルで東トルキスタンイスラム共和国が成立した。東トルキスタンイスラム共和国の主席はホジャニヤズ.ハジで、総理大臣はサウットダモッラ(Sawut
Damolla)だった。東トルキスタンイスラム共和国の各部が設けられ、ウイグルスタン共和国とも呼ばれて、この名前で貨幣を発行して、新聞も発行した。東トルキスタンイスラム共和国の国旗が作られた(三日月に星一つ。トルコ共和国の国旗に似ているが、色は青空)。
残念ながら、東トルキスタンイスラム共和国は中国国民党の弾圧、旧ソ連の干渉、回族出身の馬仲英の回族やくざ部隊の侵略や内部矛盾などで6ヵ月後に倒されてしまった。
中華民国に派遣された盛世才がもっと残酷な圧迫政策を実施し始めた。ウイグルの民族解放、独立運動が続けたが、国民党政権により残酷的に弾圧された。
1944年4月に「東トルキスタン解放組織」がグルジャ市で成立し、1944年9月に東トルキスタン共和国のイリ地区ニリカ県でゲリラ運動を始め、間もなくグルジャ市まで広がり、当年11月7日グルジャ市で蜂起を起こし、11月12日までグルジャ市のヘレムバグ(国民党の役人の住まい)と食料品倉庫を除いて、他の地域を解放した。
1944年11月12日グルジャ市で東トルキスタン共和国の国慶節が開かれた。エリハン.トレが主席、ハキムベグ.ホジャが副主席、アブドゥロップ.メフスムが秘書長になり、各部を設けていた。ゲリラの形式から1945年4月8日に東トルキスタン共和国民族軍が成立し、天山の北側のイリ地区、タルバガタイ地区、アルタイ地区などを完全に解放し、中国政権を倒していた。当時の解放、独立革命は「三区革命」と呼ばれている。
1944年11月12日の建国した東トルキスタン共和国のエリハン.トレ主席の話で言うと「いわゆる新疆が中国の一部であるというのは、真っ赤な嘘である。歴史を偽造し、人間を騙そうとする人に思い出してほしい事実は、中国の官吏及び帝王たちは、自分の命と土地を保全するために3500キロメートルの万里の長城をつくり、鷹にあった兎のようにそのなかに引き籠っていたことである。中国政府の歴史家はこの真実を隠したが、全世界の歴史家はそれを知っている。襟を持って太陽の光を隠すことができるはずはないであろう。......これから中国政府は東トルキスタン領土に対する野望を放棄して.....東トルキスタンの土地を侵略したり、東トルキスタンの民衆を圧迫したりすることをやめてほしい」。
これは中国と東トルキスタンの関係である。
1944年11月12日建国された東トルキスタン共和国は1949年12月まで存在し、その主席のアフメットジャン.カスムを始めリーダー達が旧ソ連のスターリンに呼ばれ、東トルキスタン共和国の未来について交渉があり、リーダー達の意見は完全に独立した東トルキスタン共和国を続けることだったので、スターリンは中央アジアへの支配ができなくなることを心配してリーダー達を安全委員会の刑務所で残酷に殺害し、「飛行機で北京に行く途中で墜落して遭難した」と世界に発表し、東トルキスタン共和国とその民を共産党の毛沢東にプレゼントしたのである。中国共産党の解放軍が東トルキスタン共和国に入って、お腹を満たしてから、民族軍を解放軍の第五軍に改名し、徐々に解散させ、将軍や指揮官や戦士などを労働改造所や刑務所で殺害してしまった。
当時の東トルキスタン共和国は11月12日を国慶節として決めた。11月12日は1933年の東トルキスタンイスラム共和国と1944年の東トルキスタンの建国日である。毎年11月12日東トルキスタン共和国のウイグル、ウズベク、カザフ、キルギスなどの民衆が青い旗(東トルキスタン共和国の国旗)とこのお目出度い日を記念し、東トルキスタン共和国の独立、民主、自由を心の中でお祈りしている。海外にいるウイグル人は青い旗を持って、記念活動を続けている。
中国の侵略者を追い出して、中国共産党の東トルキスタン共和国にある政権を掃除し、平和で、きれいな東トルキスタン共和国を+独立させなければ、この土地で血は流れ続ける。
ウイグル太郎 2002年12月16日
東トルキスタン情報センター
|
|
|