イリ地区コルガスで、漢族犯罪者に怒った民衆が県城を占拠した
イリ地区は天山の北側にあたり、草原が広く、雨が多く土地が肥沃で、地下資源も多い。カザフスタンと国境を接し、貿易も盛んである。これらのイリの権益に目をつけた漢人侵略者は、1990年から続々とイリ地区の各県、農村に怒濤のように流入した。彼らはイリ地区で殺人、泥棒、強盗などの犯罪を起こし、東トルキスタン国民の人身、財産の安全を脅かしてきた。
現在日本でも中国人による凶悪な犯罪が問題となっているそうだが、東トルキスタンも漢族の大量の植民がはじまって以来、同様の問題に悩まされている。
1990年11月末に東トルキスタンのイリ地区コルガス県城で10数人の漢人の流民が、1人のウイグル人青年を殴リ殺して逃げた。翌朝、県城のウイグル青年が集まって殺人犯を探したが、当局は殺人犯の漢人流民らを逃がしてしまったのである。この事実を知った県民1万人以上が集まり、デモを起こし、「殺人犯たちに死刑」、「漢人流民を東トルキスタンから追い出そう」、「民族独立を実現させなければ弾圧は終わらない!」などのスローガンを叫んで、翌朝まで県城を占領して、コントロールしたのである。
コルガス県城の漢人侵略者はひとり残らず逃げ出した。この間に1000人の漢人が暴行を受け、200人の漢人が負傷した。青年たちは道路も封鎖し、2000台の自動車を没収し、破壊したのである。
この後、県内の漢人侵略者は“新疆生産建設兵団”のコルガスに駐在する第71団にかくまわれていたのである。この間に当局によって侵略者に武器が配られた。その夜の間に侵略者たちは、県城を包囲した。翌日、侵略者とその軍が県城を攻撃したときに、立てこもっていたウイグル県民は解散したのである。何度も弾圧されてきたウイグル人たちは、これ以上抵抗を続けても無駄な犠牲がでるだけだと、過去の体験から学んでいたのである。
侵略軍と警察当局は3日間、捜査を行い、200人のウイグル青年を逮捕し、残酷な拷問後殺害したのである。今回の蜂起は弾圧されたが、中国侵略者の本質が再び現れた。銃声が聞こえただけで、侵略者政権の役人から平民までが子どもまで捨てて、ひとり残らず逃げ出したのだ。
“東トルキスタン改革者組織”による攻撃
1992年2月5日は中国人の春節だった。中国人侵略者は東トルキスタンで心置きなく新年を迎えるために、侵略軍、武装警察、公安警察などを動員し、逮捕歴のあるウイグル人を全て逮捕し、“春節の安定を守る”宣伝をくり広げていたのである。
しかし、春節当日、“東トルキスタン改革者組織”が、東トルキスタンの中心都市ウルムチの漢人侵略者が集中して住んでいる地域で、相次いで爆発を起こしたのである。爆弾は5台のバスを狙ったが、2台が計画とおり、2台が半分程度爆発し、1つの爆弾は爆発しなかった。2台のバスに乗っていた30人の漢人が死んで、60数人が負傷したのである
2月5日ウルムチで爆発された市内バス
弾圧への今回の報復で驚いた漢人侵略者らは、列車に乗り込んで中国に逃げ始めたのである。それはさながらドラマか映画のワンシーンのようだった。ウルムチ駅で切符も買わずに、ウイグル青年にお金を払って、列車の窓から尻を押してもらって、列車に入れてもらう漢人が多かった。
事件後、10万人以上の侵略者が帰国したのである。今回の報復、爆破事件の歴史意義は重大である。中国侵略者の本質が現れたのだから。東トルキスタン国民は何回も侵略者政権に騙された。占領された当初の私たちは、あまりにも無防備だと感じられた日本人の方も多いだろう。しかし、その後、知識人を中心に自らの平和を得るための条件を考え、その条件を整えるために勢力を強めてきた。弾圧を行なってきた中国共産党政権の陰謀を公開し、爆破などの武力に訴えるのが漢族侵略者を追い出すために最も効果的であるという感触を得たのである。
1992年3月16日カシュガル地区カルグリック県マザル郷(パキスタン、チベット、インドの国境に近いところ)で“東トルキスタン改革者組織”のメンバーと中国軍の間に戦争があった。侵略軍は戦車、戦闘機などで攻撃し、3人のウイグル革命者を殺害した。ほかのメンバーは負傷し、捕虜になってしまった。
1995年5月30日、中国当局はウルムチで公開裁判を開き、“東トルキスタン改革者グループ”のアブリミット・タリップ(Ablimit Talip)、イディリスハン・オメル(Idrishan
Omer)、ムハメットイミン・セイット(Muhemmetimin Seyit)、ヘリリ・アルトゥン(Helil Altun)、アブドゥッラ・メメット(Abdulla
Memet)などの捕まえたメンバーを死刑にしたのである。死刑になった5人は、東トルキスタン国民の心の中で今日も生き続けている。
(続く)
東トルキスタン情報センター
ウイグル太郎
2004年4月25日
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