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         東トルキスタン情報センター  2004        

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2004年4月19日

ウイグル民族の文化を守るための闘争

 1980年代のはじめから、東トルキスタンでは文化、芸術、教育や、ラジオ、テレビ番組の制作、雑誌、新聞の発行などが盛んになってきた。中国共産党が侵略行為を隠せば隠すほど、“民族団結”のねつ造にいそしめばいそしむほど、東トルキスタンの教師、作家、詩人、歴史家、学者などは民族平等・覚醒・未来についての研究、宣伝を強めた。

 ウイグル族の言語、文化、歴史、利益を守る闘争を展開したのである。本、詩、論文などを密かに出版して販売した。

 また、多くの歴史資料、小説、詩集も公式に出版された。イスラム教の経典であるコーラン(より正確な発音はクルアン)を現代ウイグル語に翻訳し、出版した。イスラム教の使者であるムハメットの生涯、“神仙伝”など、多くのイスラム教関係の本が出版された。宗教信仰、民族文化を守り、文化への侵略を防ごうという呼びかけが、知識人によって正々堂々となされた。

 毛沢東時代の“階級闘争”など、政治宣伝だらけの教科書の使用は中止となり、東トルキスタンの小学校から大学までの教科書は書き直された。1940年代から侵略者に抵抗し、中華民国と共産党の刑務所に長い間収監されたトゥルグン・アルマス(Turghun ALmas)が釈放され、ウイグル自治区社会科学院の研究員、新疆大学の教師などに就任した。その間に彼は『匈奴簡史』(ウイグル語で Honlarning Qisqiche Tarihi)、『ウイグル古典文学』(Uyghur Kilassik Edebiyati)、『ウイグル民族史』(Uyghurlar)など3冊の本を出版した。

 有名なアブドゥレヒム・オトゥクル(Abdurehim Otkur、詩人・文学者、1995年ウルムチで亡くなった)も刑務所から解放され、1979年から社会科学研究をしながら『足跡』(20世紀初頭の東トルキスタンの農民蜂起を中心に、侵略者への抵抗運動を描いた)、上下2巻の大作『目覚めた大地』などの歴史小説を書いて出版した。

  20世紀の80年代は、ウイグル文化が比較的に繁栄した年代だった。これらの文化、歴史、宗教について描かれた本や小説、教科書などは1990年になって“新華書店”と呼ばれる共産党経営の書店から集められて、焼かれてしまったのである。

  鄧小平の“改革・開放政策”によって刑務所の政治犯が釈放され、正常な文化研究が始まり、1982年から1990年まで多くの学生が大学を出て、教師、作家、詩人、記者、医者、公務員、会社員などになった。ウイグル人のインテリが自由に正常な思想を発表できるようになり、中国共産党の侵略本質、民族圧迫、文化消滅政策などを暴いていた。

  1990年4月5日東トルキスタンのカシュガル地区アクトゥ(Ahtu)県バリン(Barin)郷で大規模な武装蜂起が発生し、北京政府は驚愕した。(詳細は後述)。
東トルキスタンで民主選挙をやめさせ、民族文化、教育、メディア領域の教育、宣伝を潰そうと躍起になった。それまでの教科書の使用を中止し、書店で販売されていた民族文化、歴史関係の書籍を焼いてしまったのである。それと同時に、ウイグルインテリへの監視を強め、多くのインテリを逮捕し殺害、懲役刑などにした。

  共産党侵略者は有名な作家アブリミット・メスット(Ablimit Mes’ud)、同じく有名な作家で詩人であるトゥルディ・サムサック(Turdi Samsaq)などを暗殺し、作家ハジ・クマル(Haji Qumar)などを逮捕したのである。 

 トゥルグン・アルマス(Turghun Almas)は1924年10月30日、東トルキスタンのカシュガル市ドレット・バグ(Doletbagh、幸福の果樹園の意味)郷タルボグズ(Tar Boghuz)村出身で、カシュガル市ノルベシ(Norbeshi、カシュガルのチニバグホテルの近く)小学校、中学校、高校とカシュガル師範学校を卒業した。
  ウルムチで研修を受け、コルラのカラシェヘル(Qara Sheher)県小学校の教師、校長などをし、中国人の侵略行為を宣伝し、東トルキスタン国民に独立を呼びかける詩を作り、逮捕された。

  その後、東トルキスタン人の蜂起が続き、全く収まらなかったため、彼の影響力を恐れた国民党は釈放し、監視下に置いた。
 1944年、建国した東トルキスタン共和国の指導者の一人になったが、共和国政権はスターリンと毛沢東の陰謀によって1949年末に倒された。そのときから彼は新たなる侵略者の迫害を受けることとなり、中国共産党にも逮捕され、長い間収監されていた。

  毛沢東が死去し、鄧小平が登場してから、ウイグル古典文学の傑作であり、ユスプ・ハス・ハジプ(Yusup Has Hajip)が11世紀に書いた『幸せを与える知識』、11世紀にマハムット・カシュガリ(Mahmut Kashgari)がまとめた『突厥語大辞典』などの研究のために釈放され、当局の監視下で研究をはじめた。
その後、社会科学院の研究員、新疆大学の教授などを務めていた。

  1980年代に中国社会科学院によって行なわれた中国語の古典文学の試験でトゥルグン・アルマスは東トルキスタンでトップになった。中国社会科学院は驚いたのだ。漢族の研究者も多いのに、名前の長いウイグル人研究者が中国語で一番優秀だったのだから。彼がいかに優れた研究者だったかを示すエピソードである。

 トゥルグン・アルマスは精力的に、『匈奴簡史』(ロシア語、英語などに翻訳され、世界中の歴史家に愛読されている)、『ウイグル古典文学』(1992年まで東トルキスタンの各大学の文学、歴史部と高校2年生の教科書に載せられた)、『ウイグル民族史』(1989年ウイグル自治区人民出版社によって出版され、1990年11月に発禁となり、国外で売られた歴史書)など優れた本を発表し、海外にも影響を与えたのである。

  1990年4月5日バリン郷で起こった大規模な農民武装蜂起の組織は、『ウイグル民族史』を参考にしていた。このため、侵略者政権は1990年11月にトゥルグン・アルマスが書いた前出の3冊の本を発禁とし、共産党侵略者の政治宣伝の窓口である「新疆日報」で“三冊の本の間違い百例”をねつ造して、中国の侵略本質を公開するこれらの本を批判したのである。トゥルグン・アルマスの出版権を取り上げ、スパイを派遣し、2001年9月にウルムチで亡くなるまで監視したのである。事実上の軟禁状態だった。

  トゥルグン・アルマスが2001年9月にウルムチで亡くなったときに、葬儀に何万人もの市民、学生が集まり、見送ったのである。彼は不遇ながらもやるべきことはやり、天寿を全うした。
 ウイグル人からの人望が厚かったので、さしもの共産党当局も彼を暗殺することはできなかったのだ。もしそんなことをすれば、バリン郷の暴動どころでは済まない騒ぎになっただろう。この葬儀のときも当局は暴動を恐れ、厳しい監視体制を布いた。
  今も、トゥルグン・アルマスは東トルキスタン国民だけではなく、世界中の歴史家、学者たちに深く愛されている。

 私は、日本の皆さんの支持がいただければ、トゥルグン・アルマス著書と、ムハメットイミン・ブグラ(Muhemmetimin Bughra、1965年トルコで亡くなった指導者)が書いた『東トルキスタン通史』を日本語に翻訳したいと希望している。
  今まで日本で出版された、中央アジアや東トルキスタンの歴史について正確な資料は非常に少ない。日本の研究書は中国侵略者が西安、北京の皇帝の宮殿で皇帝の指示により歪曲・捏造した資料を、日本語に翻訳して出版したものにほとんど限られているのが現実である。(続く)


東トルキスタン情報センター
ウイグル太郎
2004年4月19日
 


© Uygur.Org  18/04/2004 23:00   A. Qaraqaş  日本語メール: uyghuristan@hotmail.com