ウイグル自治区水利庁長・ウイグルミノフを襲ったテロ
1985年12月12日大規模な反中デモがあって、1986年から侵略者政府は民族弾圧を強めたのである。軍隊、政府、共産党機関で働くウイグル軍人、公務員などを疑い、その職からはずす政策を始めた。特に、多額の報酬を受け取っていた幹部や管理職を、“丘に倒す”陰謀を実施したのである。丘に倒すとは、給料や報酬のよい、経済的利権のある職場から、共産党委員会機関や他の職場に転職させる。その際、地位を上げたり、表面的には出世させるが、実質的な報酬(東トルキスタン国民にいいことをして上げられる権力はなくする)などは減らすということである。
共産党委員会機関に勤めているウイグル人幹部を、民間団体に転職させた。その代わりに地方の共産党委員会まで、漢人書記を任命したのである。 中国や中国の支配下に置かれた植民地では“共産党が全てを指導する”政治体制が施行されている。つまり、共産党が政策を決めて、公文書を発行し、その内容を各級政府は実行するというしくみであり、政府はなんの決定権も持ってはいない。
東トルキスタンのほとんどの郷の共産党の書記に漢人が任命されたので、ウイグル国民は“これからモスクにも漢族書記を派遣するだろう”と皮肉っていた。従業員が多く、利益の高い会社、工場、鉱山などは“請負制度”の名目で漢人に与えられたのである。このような政策の邪魔者がいた場合、暗殺やそのほかの陰謀を企てた。
ウイグル自治区水利庁のウイグルミノフ(Uyghur Minov)庁長は中国の侵略行為、民族弾圧に反対してきたウイグル人幹部であった。彼は東トルキスタン国民の就職、環境保護などで東トルキスタン国民の利益を守ってきたのである。彼の娘のシャットグリ(Shatgul)はウイグル自治区映画工場の有名な若いアーチストだった。
1986年3月8日朝、ウイグル自治区水利庁のアパートの前で、庁長の専用車に娘のシャットグリがウイグルミノフより先に乗り込んだ。とたんに恐ろしい爆発が起こり、シャットグリは巻き込まれてしまった。ウイグルミノフは生き残ったのである。
事件後、当局の“警察、裁判所、弁護士”らが調べたふりをしたが、当然なんの背景もわからなかった。東トルキスタン国民は殺人犯を早く捕まえるように呼びかけを言ったが、捜査は終了させられた。
ウイグル民族の利益を守ってきたウイグルミノフを暗殺するために、当局は
北京から特別警察を派遣し、強力な爆弾を使い、暗殺を謀ったのだ。しかし、犠牲になったのは、娘だった。
この事件を解決しようとした警察もいたが、彼らはこのまま捜査を続ければ命はないと脅された。しかし、すべては市民に明らかになった。(当時日本の警察が“72時間でこの事件を解決してあげる”と言って、北京政府に拒まれたとの話題も流行っていたのである)
この事件は、現在まで解決されていない。事件の後も、当局は民族や東トルキスタンの土地を愛する公務員、インテリなどを交通事故と見せかけたり、毒をもったりして殺害する行為を続けている。海外で独立運動をしているウイグル人の親、友人なども交通事故で暗殺されているのである。
ウルムチで民族差別への抗議デモが起こった
1988年6月の始めに、新疆大学学生寮のトイレのドアに侵略者漢族学生がウイグル民族を侮辱するビラを貼ったのだ。内容は“ウイグル民族はバカだ。ウイグル男を奴隷にし、ウイグル女を侮辱しよう”だった。
朝から大漢族主義者のビラを見たウイグル人学生たちは、大学や政府に犯人を捕まえるように要求した。しかし、ウイグル民族の子供が侵略者に反対する一枚のビラを夜中にどこかに貼りだしたら、少なくとも1万人の警察を派遣して捜査する侵略者は、この要求には知らんふりを決め込んだ。
1988年6月15日ウルムチにある新疆大学などのウイグル学生5千人が集まって民族軽視に反対する会議を開いたのだ。学生は2日間ストライキを行なった。町に出てデモをし、侵略者政権のウイグル民族に対する弾圧、侮辱を抗議した。デモに参加するウイグル学生はどんどん増えていった。
当局は鎮圧の準備をはじめた。ウルムチでは警察当局が400人のスタッフを編成し、東トルキスタン全国の大学に、民族を監視するための県レベルの機関を設けたのである。東トルキスタン各大学に設けられた“保衛処”と呼ばれるこれらの機関は、ウイグル教師、学生の活動や生活まで監視し、少しでも疑わしいウイグル人がいれば、好きなように大学を除名、逮捕、殺害できるのである。
大学時代に少しでもデモや政治活動に参加したウイグル人学生は就職させな
い。ウイグル人の卒業生をあからさまに軽視し、山地や僻地に強制派遣してきている。
現在では中国の北京、上海、西安などの大学を卒業したウイグル人の就職をできるだけ引きのばし、さらにできるだけ遠くの山地、地方に分配し、大学で勉強した専門と全く関係のない仕事、つまり共産党の政治宣伝を無条件に行なうことを条件に、就職させているのである。
東トルキスタン国民がひどい民族差別を受けながら、苦労して大学に行かせた青年たちは、就職自体が大変困難なうえ、就職したとしても政治や思想に関するチェックがあまりにも厳しいため、結局就職せず、ちょっとした商売、肉体労働のアルバイト、親の手伝いをして、収入なしの生活を続けている者も多くいる。このような民族差別や不平等が、独立運動の炎に油を注ぐ結果となっている。
(続く)
東トルキスタン情報センター
ウイグル太郎
2004年4月16日
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