カシュガル地区カルグリック県で侵略軍がウイグル人の家畜を強奪した
1983年6月、カシュガル地区カルグリック県コクヤル(Kokyar)郷クデ(Kude)村に駐屯した侵略軍の兵士が、道路工事中のウイグル人の羊、牛、ヤクなどの家畜を横取りして、食料にしてしまった。
当然持ち主は抗議したが、兵士は道路工事のウイグル人の一人を射殺して、基地に逃げ込んだ。
現地のウイグル人たちは猛反発し、工事のウイグル人のみならず、農民までもが、侵略軍の基地に押し入り、殺人犯を引き渡すよう要求した。これに対し、基地の兵士達は威嚇射撃を行ない、ウイグル人たちの怒りに油を注いでしまった。怒りを爆発させたウイグル市民たちは、基地を包囲した。
侵略者は事態の悪化を懸念し、軍事裁判を開いて殺人犯の死刑を決定した。しかし、ウイグル市民はこれを公開処刑することを求めた。ウイグル人たちは本当に死刑が執行されるかどうかを疑っていたのだ。彼らの疑念のとおり、侵略者は死刑判決の発表後、“殺人犯が刑務所を逃げたため、死刑が執行できなかった”と発表した。実は殺人犯を中国に逃がしていたのである。
当局の発表から真実を察したウイグル人たちはさらに怒り、一週間の間デモを繰り広げ、町の中国人役人、兵士、警察などを殴ってコクヤル郷を追い出した。侵略軍はカルグリック県の司法部門と密かに結託し、運動に参加したコクヤル郷民のリストを作り、次々と逮捕したのである。
カシュガルの青年組織
1983年、東トルキスタンのカシュガル地区はウイグル民族の人口が95%以上で、侵略者政権が簡単にコントロールできない状態だった。侵略軍の兵士、警察、漢族市民は、恐怖のあまり、夜間は外出もできない状況だった。ウイグル人と漢人の間で衝突、紛争が起これば、いつもウイグル人が優勢だった。
当時、カシュガルで“青年火花”(ウイグル語でYash
Uchqunlar)組織が活動を展開させていた。モスク、公の場所で講演をし、ビラや極秘文書を発行し、政治プロパガンダを繰り広げた。ビラや文書の内容は“民族文化、教育に力を入れよう! 人権を守ろう! 宗教信仰の自由を守ろう! 祖国と民族の運命を考えよう! 漢人侵略者を東トルキスタンから追い出そう!”などだった。ビラは学校の壁、職人街の店の壁など各地に張っていた。中国語教育の強制への反発も強かった。
当局がカシュガル市に多くの兵士、警察、スパイを増やし、情報を収集し、青年組織の多くのメンバーを逮捕し、刑務所で殺害した。こうしてウイグル人への管理を強めたのである。
ウルムチで3万人のウイグル学生がデモ運動した
1976年9月9日、自らを神と見なし、中国全国のトイレにまでそのポートレートが掲げられた変態指導者・毛沢東が死去した。1978年から中国は、“階級闘争”に明け暮れた政治国家から、経済国家へと舵を切った。
1978年、大学入学試験が実施され、東トルキスタンでも1978年から受験して大学に入る若者が増えてきた。漢人の大学生は4年間で卒業する。ウイグル人大学生は、大学では中国共産党の口に合うウイグル語教科書がないので、“予科”と呼ばれる中国語の勉強を1年間しなければならない。それでウイグル人、カザフ人、キルギス人、ウズベク人、タタール人、タジク人、モンゴル人は大学で五年間学ぶことになる(医科大などは6年)。
1978年から1985年まで、多くのウイグルなどの東トルキスタン国民は、大学できちんと自然科学、社会科学を学んだ。このため、彼らは中国共産党が抱える多くの矛盾、自らの民族の置かれた現状、自分たちの正しい歴史などに開眼することとなった。
1985年、中国がパキスタンに提供した原子爆弾を、東トルキスタンのタクラマカン砂漠のロプヌルでテストした。その前から東トルキスタンのタリム盆地に位置する労働改造所に、中国から多くの罪人を運んできていた。彼らは刑務所を逃げ出し、東トルキスタン国民を殺したり、財産を盗んだりといった事件を起こした。日本でも中国人の犯罪の増加が問題になっていると聞いているが、東トルキスタンでも同様のことが起きていたのである。
ウイグル自治区政府の主席の選挙では、イスマイル・アフメット(Ismayil
Ahmet、ホテン出身、東トルキスタン国民に愛されていた人物)が再び選ばれたにもかかわらず、北京政府はトムル・ダワメット(Tomur
Dawamet、トルファン地区トクスン県出身、親中派、学歴もなく、北京の中央党校に短期派遣され、中国語のみ勉強してきた)を主席にしようと必死になった。これはイスマイル・アフメットは中国人を植民させることを拒否したからである。
人権無視、民族差別、弾圧、環境汚染、中国人による犯罪、東トルキスタンにいる中国人学校とウイグル人学校に対する予算の桁違い、民族教育の制限など、東トルキスタンで存在する矛盾にだれもが気づくようになった。これに不満を募らせた大学生、専門学校のウイグル学生3万人が、1985年12月12日、ウイグル自治区共産党委員会、ウイグル自治区人民政府の前で反政府デモを起こしたのである。カシュガル、アクス、ホテン、ボルタラ市などの学生も遠方から駆けつけた。ウルムチの大学、専門学校は一週間ストライキを行った。極寒のウルムチではあったが、学生たちは熱くデモを繰り広げていた。
政府に提出した要求の内容は1.民主選挙を実現させる、2.正義のない政策、民族圧迫、共産党政権は“ウイグル自治区”と呼んでいるのに、全く自治権のない現実への不満、3.東トルキスタンのロプヌルで行なっている核実験を止めさせる、4.中国からの漢人侵略者の植民を止めさせる、5.東トルキスタン国民に実施した計画生育政策(日本でいう一人っ子政策)を止めさせる、6.民族教育を発展させる、7.侵略者が行なっている環境汚染をやめさせる、などだった。
東トルキスタン国民はこの学生運動を支持していた。デモの直前、ウイグル自治区の主席を選ぶために、“人民代表大会”がウルムチで行なわれ、東トルキスタン各地から来た代表らによって、前の主席イスマイル・アフメットが選ばれた。
北京政府は学歴もなく、北京の言うことを無条件に実行するトムル・ダワメット(Tomur
Dawamet)を首席にしようとし、各地からウルムチに集まった“
人民代表”にトムル・ダワメットの長所を繰り返して宣伝し、投票するように促した。口ではこれにしたがった人民代表らだが、実際はトムル・ダワメットではなく、侵略者の東トルキスタン侵入に反対しているイスマイル・アフメット(Ismayil
Ehmet)に投票したのである。
この結果に失望した北京政府だが、結局はトムル・ダワメットが当選したと発表した。公正な選挙は行われなかったのだ。学生たちはこの選挙結果も批判していた。
デモ後、当局は核実験、計画生育、漢人の植民を一時停止し、学生の代表たちに“和平交渉”をもちかけた。その交渉中に、辻褄の合わないことや科学的根拠のないことを言い出した。例えば、核実験は砂漠の地下で行なっており、東トルキスタン国民に影響がないなどと主張した。しかし、自然科学専門の学生もいたので、結局は論破され、「学生運動に参加した皆さんを決して罰しない」などと約束してようやく解散させた。しかし、実際はデモの間に当局の安全庁の警察が密かに参加者を撮影をし、ブラックリストを作ったのである。
1986年年7月に卒業したウイグル人大学生、専門学校卒業生に、デモに関する懲罰としか思えないことをはじめた。卒業生には200ccの“義務献血”を強制し、しないものには卒業証を与えない、戸籍手続きはしない、就職させないとした。どんなに体調が悪かったり、もともと病弱だったりしても、免除されなかった。
卒業後に働きはじめたウイグル教師、公務員、医者、技術者などをブラックリストによって逮捕し、3カ月から数年まで懲役にしたのである。献血したウイグル学生で、建前上は正規に分配された若者でも(中国では卒業生に職を斡旋し、各地区に配属させることを分配するという)、実際には都市部をはずされ、勉強、研究の条件の悪い僻地に行かされるなど、懲罰的な人事が実施されていた。
さらに、デモ参加者の一部には卒業証書が与えられなかった。大学で5年間も勉強したのに就職が許されず、失業状態が今まで続いている人も多い。民主を求め、中共政府に逆らう行動をした学生たちは、事実上罰せられたのである。
(続く)
東トルキスタン情報センター
ウイグル太郎
2004年4月15日
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