(三)民主闘争期(1980年~1990年)
1969~1970年の血生臭い弾圧の後、東トルキスタン国民は恐怖の中に10年間を過ごした。この10年間は運動を継ぐべき若者たちを育て、東トルキスタン解放のためのチャンスを待つ時期となった。
1976年、毛沢東が死んで、1978年に毛沢東に失脚させられた鄧小平が中国の舞台に上がって、混乱していた政権を建て直し、経済・文化の開放を進めはじめた。
1980年から東トルキスタンで合法的な民主への闘争、群衆による運動が広がり、東トルキスタンを独立させようとした。インテリは民族の歴史、文化研究を強め、本、雑誌などを出版して、“眠っていた”国民を覚醒させようとした。都市部でも、農村部でも、東トルキスタン国民の民族的な自覚が呼び起こされていった。
中国の憲法にある“デモの自由”を利用して、頻繁にデモが行なわれた。
1978年、中国で大学入学試験制度が再開され、ウイグル人高校生が入学試験を受けて、大学に入りはじめたのである。文化大革命時代には停滞していた自然科学、社会科学の研究が、盛んになりはじめた。
ボルタラ漢族逃亡事件
ボルタラ州はサイラム湖の北側に位置し、カザフスタンとの国境地帯である。1979年冬にソ連軍がカザフスタンと東トルキスタンの国境近くで軍事演習を行っていた。ボルタラの市民が“ロシア軍が侵略してくる。東トルキスタン国民は問題ないが、漢人を消滅するらしい”という内容のビラを秘密裏に発行した。それと同時に、森林地帯で狩人が野生動物や鳥を獲るために発砲していた。
国境を守っていた侵略軍の兵士は慌てて上司に“ロシア軍が林の中で発砲している”と報告した。このニュースを聞いた侵略軍、役人などが恐怖のあまり混乱状態になって、直ちに漢人学校などを辞めさせ、家族を中国に帰国させた。
この様子を見たほかの侵略者も家具、日用品などを売り払って逃げ始めた。当時ボルタラ、グルジャから逃げる漢人が多く、バスやトラックが渋滞するほどだった。ボルタラ市、グルジャ市からウルムチまでの長距離バスのわずか3米ドルの切符と、自転車、洗濯機、テープレコーダなどを交換し、財産を叩き売って逃げていた。
当時、中国からの列車はウルムチまでしかなかった。ウルムチ駅は中国に帰国する漢人で混雑していた。漢人侵略者はボルタラ、グルジャなどで自分の子どもまで捨てて逃げた。ウルムチ駅は、背中に中国の住所を書かれて置いていかれた10歳未満の漢族の子どもでいっぱいだったのである。
この様子を見たウルムチの漢人らも逃げはじめた。中国銀行、農業銀行、工商銀行などは逃走するために漢族が次々と貯金をおろすため、現金が底をついた。ボルタラ、グルジャ市民は逃走している漢人を阻止し「おまえらは来た時に『辺境を守り、繁栄させるために来た』と言った。発砲の音が聞こえただけで逃げるのか」とからかっていた。
後に、事件の真相を知った北京の侵略者は、東トルキスタンにいる多くの侵略軍の役人、役所の役人を処罰したが、自らの侵略者である本質と、意気地がなく無能である実態をさらけ出してしまった。
カシュガル地区カルグリック県の蜂起
コルム山とカラコルム山の麓に位置するカルグリック(Qarghiliq、カシュガル市から265Km南にある。胡桃の山地なので、烏が多い。カルグリックは“カラスの多いところ”という意味)のウイグル人は、中国侵略者にもっとも激しい抵抗闘争を仕掛けてきた。他の地域のウイグル人たちはみな彼らを模範としていた。中国侵略者はカシュガルのカルグリックのウイグル人を、ウイグル語でいうところの目に当たった釘、日本語なら目の上のこぶと見なしてきたのである。カルグリックは東トルキスタンからチベットへの要地である。侵略者は昔から今に至るまで侵略軍を配置し、警察を増員し、多くのスパイを派遣している。監視を強めて、何かあってもすぐ鎮圧できるように万全を期している。
1980年8月19日、漢人ヤクザが車でウイグル人居住地に来た。途中でウイグル人教師の7歳の子供を車で轢き殺して逃げた。
カルグリックの市民が集まって、直ちに犯人をつかまえるように政府に談判したが、無視された。侵略者政府が逆に殺害された子の親に圧力をかけて、ちょっとした現金で黙っているように脅した。
この露骨な民族差別や長年の弾圧に怒りを爆発させた市民が、殺害された子供の遺体を掲げてデモし、役所のウイグル人から学校、会社、工場、病院などの職員がデモに参加した。労働者、職員はストライキを行った。学校は授業は止めた。数千人が“凶手を厳罰しよう”、“命に命、血に血で報いよう”、“漢族侵略者を追い出そう”などのスローガンを大声で叫んで、県政府に入り、もし捕まえて、死刑にしなければ、自らで厳罰すると政府に警告を出した。
その後当局は犯人を“逮捕した”ふりをして、中国に逃げさせて、“軍事裁判所に任せる”と誓ったが、後から“軍事裁判会が開かれる前に逃げてしまった”とカルグリック市民を騙したのである。さらに怒った県民は侵略者の軍人、警察、役人などを会ったところで殴ったり、殺したり、半日の間にカルグリックの侵略者を駆除してしまった。
その後当局はカシュガル市の南のイェギシェヘル(Yengi Sheher)にある“南疆軍区”、ホテン地区などから多くの部隊を動員してカルグリックで国家テロを行い、県民を逮捕、弾圧したが、カルグリック県民をはじめ、東トルキスタン国民の報復心が強まったのである。
(続く)
東トルキスタン情報センター
ウイグル太郎
2004年4月8日
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