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東トルキスタン情報センター 2004
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2004年4月
3日 |
東トルキスタンの50年の独立運動史(6)
(二)巨大地下組織による独立への暗闘(1960年~1979年) ウルムチで密かにすすめられた労働者運動と弾圧
1961年、ウルムチの西山石炭鉱山で働いていた18人が、「東トルキスタン救国組織」を結成した。鉱山の管理人、労働者、鉱山の公安局の警察までもが参加していた。まもなく鉱山で働いている1万6千人が加わった。組織は広がってウルムチ八一鋼鉄工場(“八一”は8月1日で、中国解放軍の建軍日。東トルキスタンの大学、工場などにその名前をつけていた)、六ダワン炭坑の3万人とウイグル人公務員も、この組織に参加した。
当時、ウルムチの西山炭坑付近の山の下に大きな弾薬庫があった。組織の目的は弾薬庫を占領して、ウルムチを解放することだった。この組織のそのリーダーは40年代の東トルキスタン共和国の指導者だった人物である。鉱山の労働者の多くは、東トルキスタン民族軍の解散させられた指揮官、兵士や、カシュガル、アクス、ホテン地区に飛ばされた軍人の子どもや、ウルムチの青年などだった。
しかし、まもなく中国共産党のスパイがこの組織の情報を得、運動を潰そうと機会をうかがいはじめた。1962年、後述するイリ(天山の北側のグルジャを中心としたイリ地区を指す)・タルバガタイ蜂起があったが、東トルキスタン救国組織の若いメンバーの一部も逮捕され、殺された。
1963年夏には、東トルキスタン救国組織のメンバーが時限爆弾のテストをしているのが見つかってしまった。8人のウイグル青年が捕まったのだ。
そのとき、ウルムチで5万人のウイグル人が武器も用意して、武装蜂起の準備をしていたのである。
当時、中国で農民、労働者、会社員などが“民兵”になって軍事訓練を受ける政策があり、東トルキスタンでは“ソ連修正主義の侵略を防ぐ”ために、解放軍と呼ばれる侵略軍、“生産建設兵団”という侵略軍のほかに、ウイグル民族も含めた労働者、幹部、農民なども“民兵”になって軍事訓練を受けていた。
東トルキスタン救国組織のメンバーの中に、傀儡政府に認められている多くのウイグル“民兵”がいて、合法的に軍事訓練を続けていた。民兵が弾を入手したら、ウルムチを中心に東トルキスタンを解放するのは簡単なことだったのである。この情報が侵略者のスパイによって、毛沢東に伝わった。
毛沢東は驚愕した。直ちに60万人の新しい侵略軍を東トルキスタンに派遣して、“世界に知られないように”鎮圧しようと決定した。同時に、ウイグル自治区政府、ウイグル自治区軍区、各地区、鉱山の役人、民族軍の指揮官、地方の管理人などを、北京に集めて政治会議を開くことになった。鉱山や国営会社などは臨時休業になり、労働者や従業員は自宅待機させた。
ウルムチ市には戒厳令が布かれ、会社、工場、鉱山の周りに侵略軍が配備された。東トルキスタン救国組織のリーダーや幹部が夜中に自宅から逮捕され、殺害された。
一般の労働者などは労働改造所で政治学習を受けてから、“すべてを絶対秘密にする”ことを条件に釈放されたのだ。
間もなく工場などは閉鎖され、ウイグル人労働者が強制的に解散させられて、逮捕、解雇、遠方の山地や田舎に飛ばされるなどの制裁がなされた。ウルムチの多くのウイグル市民が強制で集まれ、武装警察の監督下で各地区に飛ばされた。
同時に中国から50万人の侵略人口を流入させ、ウイグル人の“代わりに”ウルムチや郊外の鉱山、石油基地、会社、役所などに就職させたのである。1万5千人のウイグル人が逮捕されて、拷問されたり、殺害されたりした。ムハメット・セイット(Muhemmet
Seyit)、アブドゥケリム・タリップ(Abdukerim Talip)など多くのウイグル英雄が逮捕の後、殺害されたのである。
イリ・タルバガタイ・アルタイ蜂起
1944年11月12日から1949年の秋まで、東トルキスタン共和国が独立していた。独立国家と自由の味を味わったイリ地区、アルタイ地区、タルバガタイ地区の国民は、1950年から中国共産党侵略者の嘘、弾圧行為、悪魔の本質を察し、導線に火のついたダイナマイトのような状態だった。
当時、中国共産党は神ほど信仰していたソ連共産党と対立するようになり、ソ連の侵略を恐れていた。この絶好のチャンスを狙った東トルキスタン国民は、蜂起し、中央アジアとの国境をオープンして、武器問題を解決し、独立を実現しようと決めたのだ。
1962年5月27日、グルジャ市で1万人以上の学生、教師、職員、市民が蜂起した。彼らは5月29日、グルジャ市のイリ自治州共産党委員会の前に押し寄せた。そのとき敷地にいた侵略軍は、彼らを射殺した。射殺された1000人の市民の中には7歳の子どもまでいた。
鎮圧後、当局はグルジャ市で戒厳令を布いた。動くものは人間だけでなく、動物まで撃たれるほどだった。ウイグル人が次々と逮捕された。タルバガタイ地区のチョチェック(中国では塔城)市でも、同様に戒厳令が布かれた。
当時はソ連(現カザフスタン)とのコルガス、チョチェックなどの国境は開いていた。蜂起が鎮圧された後、イリ州(イリ地区、タルバガタイ地区、アルタイ地区を含む)の市民、農民、牧民がカザフスタンに逃げ始めたのである。
亡命したウイグル、カザフなど東トルキスタン国民が百万人に達した。腹黒い侵略者はこの“好機”を逸することなく、多くの侵略者人口を動員し、東トルキスタンのイリ、タルバガタイ、アルタイ地区に移住させ、ウイグル、カザフ人の耕地、草原、住宅、店、財産など全てを無償で提供したのである。蜂起の後に、侵略者政府は数え切れない東トルキスタン国民を逮捕し、刑務所で殺害したのである。
カザフスタンに亡命したウイグル族、カザフ族などの住民がソ連の厳しいチェックを受けた後、カザフスタンのジェティス(カザフ語でジェティス、ウイグル語でYette
Suイエッティ・スー、日本語に訳せば“七河”)地区に定住した。その後、中央アジアのキルギスタン、ウズベクスタンなどに移った人も多くいたのである。
1930年代に東トルキスタンイスラム共和国が独立した。スターリンはこれに危機感を強め、ウイグル人政治家をモスクワに呼んで、“平和交渉”した。しかし、ウイグル人政治家は決してモスクワに屈しなかった。ウイグル人がスターリンのいうことを聞かなかったので、スターリンは追い返したが、これに腹を立てたスターリンは、当時中央アジアにいたウイグル人を、支配もとのキルギスタン、カザフスタン、ウズベクスタンで一晩で70万人を虐殺したのである。幸いにもこのことを早々に知ったウイグル人はウズベキスタン、キルギスなどで、自分が何民族であるかを隠しウズベク族のふりをして、殺害を免れたのである。
ウイグル族はウズベク族とほとんど同じといっても過言ではない。顔色、言葉、衣装、食文化、結婚式、葬式、宗教など全て同じである。現在では、ウズベキスタンの南部にウイグル人が多く居住している。が、戸籍上は“ウズベク族”と書かれている。現在の中央アジアでは、ウイグル族はウズベキスタンに一番多い。次はカザフスタン、その後はキルギススタンである。もちろん、アフガニスタン、パキスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャン、サウジアラビア、エジプト、トルコ、ヨーロッパ、カナダ、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどにも住んでいる。日本には留学生が数百人いる。
(続く)
東トルキスタン情報センター
ウイグル太郎
2004年4月3日
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