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         東トルキスタン情報センター  2004        

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2004年4月2日

東トルキスタンの50年の独立運動史(5)


ウルムチの南のウランバイ(Ulanbay)騎馬団の蜂起

1944年11月12日独立した東トルキスタン共和国の民族軍が、1950年、中国共産党の侵略軍である人民解放軍に合併された。民族軍の騎馬団がウルムチの南にあるウランバイに派遣された。ウランバイも戦略的要地である。民族軍の騎馬団の周りに侵略軍の4つの重武器団が置かれた。東トルキスタン人民党が各地区の農民蜂起を強め、早速ウルムチを攻撃し、中国共産党の政府機関を廃墟し、侵略者を追い出そうと呼びかけた。

1956年2月に蜂起が起こった。ジュンガル盆地の石油基地に追い出された民族軍の兵士2000人、カシュガルの西北のカンス(Kansu)石炭鉱山に追い出された1000人、カシュガル市内に分散された500人がミジット・ザヒディ(Mijit Zahidi)の指導下にウルムチに集まり、武器が配られ、武装蜂起の準備をした。カラマイ石油基地の200台のトラックを入手し侵略者と戦った。
 侵略政府は大部隊で今回の蜂起も鎮圧したが、多くの民族軍指揮官や兵士はカザフスタン、キルギススタン、ウズベクスタンなどに亡命したのだ。逮捕された蜂起参加者はウルムチの刑務所で殺害された。

ヘディチェハン(Hedichihan)蜂起
 東トルキスタンのホテン地区ホテン県ハンエリク(Han Eriq)郷のヘディチェハンの指導下の郷民が1957年1月に侵略者に反対蜂起を起こし、地方政権を倒した。ホテン地区の侵略者政権が武装警察を派遣し鎮圧しようとしたが、その武装警察もウイグル農民によってせん滅された。緊張した当局は大部隊を派遣し、鎮圧しただけでなく村民を子どもまで弾圧したのだ。

※〔ご参考〕中国共産党の“百花斉放、百家争鳴”と東トルキスタン独立運動

1956年、中国共産党の打ち出した芸術の発展、科学の進歩、社会主義文化の繁栄を促す方針。漢族社会主義革命と社会主義建設にとって有利であれば、芸術・学術の分野でさまざまな意見を出し合い、自由に論争することが可能だとした陰謀政策である。“百花斉放”は文学、芸術、“百家争鳴”は思想、学術についてインテリを騙す政策である。

“百花斉放、百家争鳴”政策は、中国国内では独裁政権に不満を持っているインテリを見つけて弾圧するために作り出したものが、東トルキスタンやチベットでは民族弾圧に使われた。

 毛沢東政府は最初“中国共産党は反対意見や批評を歓迎する、批評者を歓迎する”、“絶対報復しない”と誓っていたが、東トルキスタンのインテリは中国共産党の真の顔つきを公開し、独立を目指して国民を動員させようとした。中国侵略者が東トルキスタンに来てからの民族弾圧を公開し、国民が騙されないように呼びかけたのである。
“東トルキスタン独立”を聞いた毛沢東政府は驚いて、早速ウイグルインテリを逮捕しはじめた。“地方民族主義”、“右翼者”の罪名で15万人のウイグルインテリ、宗教家を逮捕し、殺害したのである。このほかに多くの優秀なインテリを地方へ分散した。

 東トルキスタン共和国政府から中国共産党の傀儡政府に参加した在職のセイドッラ・セイプッラエフ(Seydulla Seypullayev)副秘書長、ウイグル自治区政府のムハメットイミン・イミノフ(Muhemmetimin Iminov)副主席、エセット・イサコフ(Eset Isaqov)副主席、ズィヤ・セミディ(Ziya Semedi)文化庁長、イブラヒム・トゥルディ(Ibrahim Turdi)民政庁長、ウイグル自治区共産党委員会宣伝部のヌル・サディロフ(Nur Sadirov)部長、ニヤズ・カリ(Niyaz Qari)商業庁長、ウルムチ市長のアブドゥレヒム・セイディ(Abdurehim Sehidi)、農業庁のアブドゥゴプル庁長、ハミド・ヨルワス(Hamit Yolwas)副庁長、ミジット・ゼイディ(Mijit Zeydi)石油局長、イリ州のクルバン・ガリ(Qurban Ghali)州長、グルジャ市長のムヘッメットイミン・オメロフ(Muhemmetimin Omerov)、アクス地区のオメル・アブドゥッラ(Omer Abdulla)役長など、多くのウイグル人指導者が殺害されたのである。

アルタイ地区コクトカイ県牧民の蜂起

1958年東トルキスタンの山地や高原の草原や家畜は、中国共産党侵略者によって“国家財産”として強制的に没収されたのである。侵略者の強盗に遭った牧民が、ジェムシットカン(Jemshitqan)とデリリカン(Delilqan)の指導下でアルタイ地区で武装蜂起を起こしたのだ。牧民はチンギル、ベシバリック(ウルムチの北、侵略者が“天池”と呼んでいるボグダ湖の北側の地。“5つの町”という意味だ)まで遊牧民を動員させ蜂起を広げた。草原と家畜を侵略者の手から取り戻し、共産党の幹部を攻撃し、頑固な侵略者を打ち破ったのだ。

 しかし、毛沢東侵略政府はまたもや大部隊を派遣し、今回の蜂起を弾圧したのである。カザフ、ウイグルなどの遊牧民、農民を逮捕し、刑務所で拷問し、餓死させたのである。

クムル農民蜂起

1958年10月に、19世紀の始めにクムル地区で農民蜂起を起こしたトムル・ハリファ、1932年クムル農民蜂起を起こしたホジャニヤズ・ハジの後継者ら7000人集まって、侵略者に対する武装蜂起を起こした。スルタン・マフムット(Sultan Mahmut)、エリ・クルバン(Eli Qurban)、セイット・バトゥル(Seyit Batur)の指導下で武装蜂起を起こした農民、牧民があっという間にクムル県を解放し、多くの武器、玉などを入手した。政府機関・通信設備を破壊し、道路をコントロールしたのである。中国共産党侵略者が逮捕して刑務所に入れていた政治犯をも解放した。

 この蜂起は1年間続いて、侵略者の多くの軍隊がせん滅された。手を焼いた北京政府は蘭州、ウルムチ及び他の地区から可能なかぎり多くの部隊を派遣し、ようやく農民や牧民を鎮圧した。鎮圧後数千人の遊牧民や農民が逮捕され、刑務所で殺害されたのである。
(続く)

東トルキスタン情報センター
ウイグル太郎
2004年4月2日
 


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