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東トルキスタン情報センター 2004
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2004年4月1日 |
東トルキスタンの50年の独立運動史(4)
イェギサル(Yengisar)県で夏の収穫期に農民が蜂起
中国共産党侵略者は土地改革のあと、人民公社を作り、さらにウイグル国民の土地を奪った。中国から漢族侵略者を続々と入植させ、東トルキスタンに定住させてウイグル農民の土地を無償で提供した。この行為は東トルキスタン国民の憎悪を喚起した。
東トルキスタンのカシュガル地区イェギサル県のムテリプ(Mutellip)、ジェリル・カリ(Jelil Qari)が農民を動員し、1955年6月の収穫の時に反中蜂起を起こし、侵略者の税金として穀物を取りに来た公務員を殺害した。農民たちは国立穀物倉庫を破壊して、収穫した小麦などを自分の家に運んでいった。耕地はもともとの持ち主であるウイグル農民に返した。
この農民蜂起に驚いた侵略者は、カシュガル市から400台の軍用トラックと戦車でイェギサル県に来て農民蜂起を弾圧した。ウイグル農民を殺して、家を捜査し、さらに逮捕して、武器、土地、財産、家具、家畜、小麦、とうもろこし、油、綿などを強奪したのである。ジェリル・カリなど逮捕されたウイグル人は1964年に度重なる拷問で殺害された。
ホテン地区アットチョイ村農民蜂起
東トルキスタンイスラム党の建党者の一人で、ホテン出身の有名な宗教学者アブリミット・ダモッラ(Ablimit Damolla)、ペッティヒディン・マフスム(Petihidin
Mehsum)などが長期にわたって準備をし、1954年末に救星組織(Teshkili Nijatiye)を作り、11月15日に武装蜂起した。中国共産党侵略者を追い出して東トルキスタンを独立させるのが救星組織の目的だった。蜂起後、当局は大部隊を動員させ、直ちに鎮圧、1300人を逮捕・弾圧した。リーダーのペティヒディン・マフスムは逃亡、1957年まで隠れていたが、1957年2月に逮捕され、1958年5月1日処刑された。アブリミット・ダモッラなどは1959年4月に処刑された。
ホテン地区カラカシ(Qaraqash)県農民蜂起
1956年3月、東トルキスタンのホテン地区カラカシ県(カラはウイグル語で“黒い”、カシは“玉石”で、カラカシ河の名前で呼ばれている。中国侵略者が意訳し“墨玉”と呼んでいる)の宗教家バキ・ダモッラ(Baqi
Damolla)や、ムハッメット・ダモッラ(Muhemmet Damolla)などが率い、1000人のウイグル農民が中国侵略者に対して武装蜂起を起こした。カラカシ県を解放し、タリム流域に侵略してきた中国の生産建設兵団を攻撃して、1万人以上を消滅した。
しかし、当局は直ちにこれを鎮圧、200人を逮捕し、拘禁・拷問などで殺害した。リーダーたちも逮捕後に殺害された。最終的には2000人のウイグル農民を逮捕して殺害した。
ホテン地区ロップ(Lop)県農民蜂起
1956年5月に、ホテン(天山山脈の南にあるタリム盆地及びタクラマカン砂漠の西南地区、正しい発音はHotenホテンである。中国侵略者は意訳で“和田⇒Hetian”と呼んでいる。日本語で“ホータン、ホタン”などと発音している、これから“ホテン”と発音していただきたい)地区ロップ県の農民がアブドゥカディル・ダモッラ(Abduqadir
Damolla)の指導下で、武装蜂起を起こした。
ロップ県の農民もカラカシ農民の蜂起に賛同し、ロップ県内の中国侵略者の兵隊、役人などを消滅し、政府機関などを廃墟した。1500人のウイグル農民が中国侵略者にひどい打撃を与えた。蜂起が鎮圧された後、中国侵略者は1年かけてウイグル農民の各家を捜査し、蜂起に関係があろうがなかろうが、気に入らない人間は逮捕・殺害した。
東トルキスタンイスラム党の闘争
東トルキスタンの歴史とその経験を総結した宗教学者、文学者、哲学者のアブドゥカディル・ダモッラ(アブリズ.マフスムの父親http://www.uygur.org/japan/et/2004/0312.htm 、1924年カシュガル市にあった自分の図書館で侵略者によって殺害された)などの遺言に従い、1942年にウイグル学者達がウルムチに集まって、チンギズ・ダモッラ(Chingiz
Damolla)、エリハン・トレ(Elihan
Tore、1944年11月12日グルジャで独立宣言をした東トルキスタン共和国の主席)、前出のアブリズ・マフスムなどの指導下に東トルキスタンイスラム党を作った。1950年中国共産党侵略者が東トルキスタンイスラム党の党旗を没収し、チンギズ・ダモッラなどのリーダー達を弾圧した。さらに、アブリズ・マフスム、エスヘドゥッラ・ダモッラ(Eshedulla
Damolla)などを逮捕した。暗殺された者もいる。
1955年アブリズ・マフスムが出所し、東トルキスタンイスラム党の運動をまた始めた。イスラム世界に知らせるために、エジプト新聞などで東トルキスタンの解放、独立のための援助を求めたのだ。このため再度逮捕された。
当局は東トルキスタンイスラム党の金製スタンプを没収して、“新疆軍区”の秘密アーカイブに入れたのだ。この金スタンプを1974年ウイグル自治区の傀儡主席、新疆軍区の司令官”であるセイプディン・エズィズィ(Seypidin
Ezizi、2003年北京で亡くなった)が自宅に持ち帰ったが、1979年セイプディン主席の家が捜査された時に没収され、北京に持ち去られた。
1976年9月9日毛沢東が鬼籍に入り、華国鋒が人形のように独裁政権に即位し、やがて鄧小平が即位し、中国が政治テロ国家から経済国家に変わり始めた。この時期、共産党による弾圧は少し緩まっていた。東トルキスタンイスラム党は、またこの時期に独立運動を強めることになる。
1985年12月12日、東トルキスタンのウルムチ市の大学、専門学校のウイグル学生3万人が集まって、民主を求めてウイグル自治区共産党委員会、ウイグル自治区政府の前に行ってデモしたのである。
この学生運動は核実験、環境汚染、東トルキスタン国民に対する計画生育政策、教育、文化領域の弾圧、民族差別、自治区政府の主席まで北京で決定し、自治などまるでないという侵略者の陰謀を暴き、民主を求めていたのである。
その結果、当時デモに参加したウイグル学生達は1986年から200cc献血しなければ“大学卒業証を発行しない”、“戸籍の手続きをしない”、“就職させない”などファッショ政策を実施したのである。大学生の一部を後から逮捕したのである。これは漢民族の報復の幕開けであった。
北京政府がまた緊張し、東トルキスタンに対する民族圧迫や弾圧を強めて、全てのモスク(イスラム教の清真寺)にイスラム文化に通じている人物ではなく、中国共産党の政治宣伝を繰り返す傀儡指導者を任命した。数え切れない宗教家が逮捕され、刑務所で殺害された。イスラム文化を学ぶチャンスは奪われた。北京政府の腹黒さをよく理解したウイグル国民が、各地区で反中運動を広げていった。
(続く)
東トルキスタン情報センター
ウイグル太郎
2004年4月1日
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