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東トルキスタン情報センター 2004
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2004年3月30日 |
東トルキスタンの50年の独立運動史(2)
東トルキスタン人民革命党は1950年から40年の間、そのメンバーは6万人にのぼった。78の組織があり、200万人を動員し、200回以上反対運動を起こした。
1949年末に中国共産党と美名を名のった侵略者の軍隊が東トルキスタンに入り始めた。1950年1月30日クムル地区アラチュルク(Ara Turk)県でナスル(Nasir)とアブドゥッラ(Abdulla)の指導下で500人のゲリラグループが侵略軍へ攻撃をしかけた。
1950年3月6日夜、中国共産党侵略軍への全面的な攻撃が始まった。ウイグルの9つの軍、カザフの1つの軍、回族の1つの軍が協力して戦った。多くの侵略軍兵士が死んだ。各軍はアルタイ民族軍の将軍だったオスマン・バトゥル(Osman
Batur、カザフ族)とジャニムカン(Janimqan、カザフ族)と連絡を取り合い、4月に合流した。オスマン・バトゥルが司令官、ヨルワス・ベグ(Yolwas
beg)が副司令官となった。この軍が2万人に達し、中国共産党の多くの兵士をせん滅した。
この軍は中国侵略者と150回以上にわたって戦闘を繰り広げ、多くの中国軍を撃破した。しかし、その後、毛沢東が大きな部隊を派遣し、オスマン・バトゥル軍を制圧した。オスマン・バトゥルは捕虜となり、1951年5月2日ウルムチで処刑された。彼の軍の一部の兵士や指揮官が亡命し、カザフスタン、インド、カシミール、アフガニスタン、トルコ、ヨーロッパなどで生活している。イスタンブールに亡命したゲリラも多くいる。東トルキスタン移民協会を作り、民族独立運動を続けているのだ。
1950年1月、騎馬ゲリラが東トルキスタンの精河県、マナス(Manas)県、クトゥビ(Qutubi)県からウルムチの南山に集まって中国侵略軍に攻撃をしかけた。ほとんどのゲリラは捉えられ、中国共産党に刑務所で殺害された。一部が海外に亡命し、インド、アフガニスタン、トルコに亡命して今でも独立運動を続けているのである。
ソ連の裏切りに遭い、東トルキスタン共和国のリーダーたちがモスクワでスターリンによって殺害されてから、東トルキスタン共和国の政権は中国と“平和交渉”せざるを得なくなった。ウルムチで共産党との“連合政府”が成立した。しかし、これは中国がようやく成立した東トルキスタン共和国を乗っとるための罠だった。
当時中国の罠をよく知っているインテリや革命家51人がグルジャに集まった。会議を開いて中国の陰謀を公開し、文書を発表して東トルキスタン国民に警告した。同時に毛沢東に手紙を送って、東トルキスタン併合の野望を思いとどまるよう伝えた。
これに対し、毛沢東はずる賢く立ち回った。この51人を政権内や職場などで昇格させた。東トルキスタンのウイグル族らの民族軍を“人民解放軍”と呼ばれる侵略軍と合併してから、あとは待機するようにと伝えた。この間に解放軍をより東トルキスタン内に送り込み、軍や政権内でのウイグル人の影響力を低下させていった。こうして結局民族軍は消滅し、最終的には軍人もインテリも弾圧されたのである。
(続く)
東トルキスタン情報センター
ウイグル太郎
2004年3月30日
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