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         東トルキスタン情報センター  2004        

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2004年3月29日

東トルキスタンの50年の独立運動史


前書き

  東トルキスタン共和国が中国共産党の植民地になって半世紀、ウイグル民族をはじめ、東トルキスタン国民は中国人侵略者の圧政、残酷な弾圧に対して絶やすことなく独立闘争を続けてきた。

 中央によって漢族の大規模な入植がすすめられ、それに伴って私たちは土地や仕事など、政治的・経済的な当然の権利を奪われ、民族差別を受けてきた。さらに、厳しい言論統制、不当逮捕・処刑、文化消滅政策が繰り広げられた。これらのファッショ政策に対する私たちの抵抗は中国中央政権によって、外国はむろん、中国国内にも隠されてきた。私たちへの弾圧は、西部大開発や反テロという表現に歪曲されている。抵抗運動は屈辱的に鎮圧され、より厳しい血なまぐさい弾圧を生んだ。しかし、どんな仕打ちも、私たちを諦めさせることはできなかった。

 東トルキスタンは東トルキスタン人の東トルキスタンである。中国人がいくら歪曲しても、歴史は歴史で、事実は事実である。中国政府は彼らの侵略者としての本質を隠せない。弾圧があるからこそ、抵抗が起こる。これはれっきとした事実である。
 中国が隠そうとしてきた真実の数々を、日本人をはじめ、日本語を読める方々にお教えしたい。東トルキスタンで20世紀後半の50年間に繰り広げられた独立運動の一部を紹介したい。

 ウイグル民族は祖国を愛し、平和、民主、自由を愛する民族である。独立運動は東トルキスタンが独立し、平和、民主、自由を実現させるための当然の行為である。私たちの自由への渇望はもうだれにも抑えることはできない。

一. 1949年〜1960年 中国共産党への抵抗運動の始まり

中国共産党に占領されるまで

 1930年代、清朝が崩壊したあとも、漢族の“国民党”によって、ウイグル民族に対する弾圧が続けられていた。ウイグル民族の学校を閉鎖し、文盲にして支配するなどの文化的な消滅政策が実施されていた。これに対し、ウイグル民族は抵抗運動を始めた。実際のところ国民党時代や清朝時代を含めると、私たちの運動は半世紀どころではない、さらに長きにわたる活動である。

 1932年、東トルキスタンのクムル地区(中国ではハミと呼ぶ)で、ホジャニヤズ・ハジ(Hojaniyaz Haji)の指導のもと農民蜂起が起こり、間もなく東トルキスタン全国に広がった。1933年11月12日には、ついにカシュガルで東トルキスタンイスラム共和国が独立宣言をし、ホジャニヤズ・ハジが大統領、サビット・ダモッラ(Sabit Damolla)が総理大臣となった。
 しかし、そのわずか1年後の1934年から、国民党政権による弾圧が始まり、大統領も、総理大臣もウルムチで殺害されてしまった。

 中華民国侵略者もウイグル民族教育を禁止し、東トルキスタン全体で教師、作家、詩人、宗教家、愛国者を弾圧した。1938年、カシュガル市で収監されていた300人のインテリを射殺し、死体にガソリンをかけて燃やしてしまった。
 しかし、独立運動は東トルキスタン全体で鎮まることはなかった。
 ウイグルインテリが国際情勢や中国国内情勢を正しく分析し、外国の民族解放革命の経験を総結し、自らの政党や組織を作り始めた。

 1942年末に、トフティ・クルバン(Tohti Qurban)、ケンジ(Kenji)、カスム・ズルヤル(Qasim Zulyar)、エズィズィ・カスム(Eziz Qasim)、ズラル(Zulal)、マムトフ・クルバン(Mamutov Qurban)、ハミット・イミノフ(Hamit Iminov)、イミンジャン(Iminjan)、アブドゥレヒム・オメル(Abdurehim Omer)などの、ウイグルインテリや政治家が“人民革命解放組織”を作った。

 1944年11月12日独立運動が勝利し、東トルキスタン共和国がグルジャ市で独立宣言した。1945年12月7日、東トルキスタン共和国首都のグルジャ市で人民革命党の支部が作られた。人民革命党中央委員会はアブドゥケリム・アッバソフ(Abdukerim Abbasov)主席をはじめ、セイドゥッラ・セイプラエフ(Seydulla Seypullayev)、ムハメットイミン・イミノフ(Muhemmetimin Iminov)、エスエット・イサコフ(Eset Isakov)、アブドゥッラ・ザキロフ(Abdulla Zakirov)、セイピディン・エズィズィ(Seypidin Ezizi)など7人から成っていた。

 東トルキスタン指導者、インテリ、兵士、幹部、職員、労働者、市民、農民、牧民が人民革命党に入り、その動きは瞬く間に広がっていった。4000人以上が入党し、1948年には4万人の党員を数えた。人民革命党の軍隊は、東トルキスタン全域を解放するため、ウルムチなどほかの都市を目指した。
 しかし、実はすべての戦闘には旧ソビエト連邦(以下ソ連)の協力があった。ソ連の軍事力の支援がなければ、中国からの独立は難しかったのである。
 しかし、日本の北方領土の運命を決めたヤルタ会談中、実はソ連と中国の間でも陰謀が進んでいた。このとき、ソ連から中国に東トルキスタンにおける権益が譲渡されてしまった。東トルキスタン共和国は中国に売られてしまったのである。ソ連は東トルキスタン軍の戦闘を停止されることにしたのだ。その変わりソ連は中央アジア権益を守ろうとした。東トルキスタン共和国が独立し、中央アジアで民主、自由が実現されたら、ロシアの侵略下に置かれたカザフスタン、キルギスタン、ウズベクスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャン、タタールスタン、タジキスタンなどの兄弟民族国家がモスクワに反対運動を始め、独立運動が激しくなるので、独裁のソ連共産党が東トルキスタン共和国を消滅し、中国共産党侵略者に売り渡したのである。(独裁共産党の権益を守り、広げようと)
 そして、この密約の実行をスムーズにするために、ソ連共産党の有名なファッショ総書記スターリンは、東トルキスタン共和国の指導者グループを北京の会議に参加させるとの名目でモスクワ経由の飛行機に乗せ、1949年8月にモスクワで殺害してしまった。このとき殺害されたのは、アブドゥケリム・アッバソフ、アフメットジャン・カスムらであった。東トルキスタン共和国は中国共産党政府にプレゼントされたのである。
(続く)

東トルキスタン情報センター
ウイグル太郎
2004年3月29日
 


© Uygur.Org  29/03/2004 14:38   A. Qaraqaş  日本語メール: uyghuristan@hotmail.com