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         東トルキスタン情報センター  2004        

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2004年4月20日
 

(四)民族弾圧に対する報復期(1990年~)

  1990年まで東トルキスタン国民の民主化運動は全く報われない結果に終わっていた。中国の憲法にデモの自由が明記されているにも関わらず、東トルキスタン国民の民主化運動は一方的な弾圧に終わってしまった。侵略者は狂ったような血生臭い弾圧を続けた。人民革命党など地下組織を摘発し、東トルキスタンの民主化運動に“民族分裂活動”との罪名をつけ、至るところで弾圧するファッショ体制を布いた。

  民主化運動がことごとく鎮圧され、その都度、肉親や親戚、友人たちを失った東トルキスタン国民は報復の道を選んだのである。“侮辱されながら生きていくより、栄光の犠牲のほうがましだ”との考えは東トルキスタン青年の心に深く刻まれた。過分な民族差別、弾圧に耐えられなかった東トルキスタン国民は地下組織を作り、そして組織に関係ない人間も小さなグループ、または個人で、侵略者への報復をはじめたのである。

カシュガル、バリン郷農民の武装蜂起

  カシュガルは東トルキスタンでウイグル人口の一番多い地区である。タリム盆地の西、カシュガル市の西南、クルム(コルムとも言う、岩の意味。中国語文献には音訳して“崑崙”と言う)山脈の東麓に位置するアフトゥ(Ahtu、白い山の意味。西に雪山がある)県バリン(Barin)郷の農民は侵略者を追い出して、東トルキスタンを独立させるために、長い時間をかけて武装蜂起の準備をした。鉄砲、ピストルなど武器を入手し、爆弾、手榴弾を作り、地下組織のメンバーに軍事訓練を受けさせた。1万人が武装し、他の地区と密かに連絡を取り、準備を進めていったのである。表面的には侵略者が認める“民兵訓練”を強化したふりをし、当局の摘発を避けたのである。

 1990年4月5日バリン郷(人口は3万人)で1万人の農民がゼイディン・ユスプ(Zeydin Yusup)の指導下で鉄砲、機関銃、爆弾、手榴弾、ピストル、ナイフ、鍬、鎌などを持って侵略者への革命を起こした。まずアフト(Ahtu)県政府、共産党委員会を占領し、役人をコントロールすることに成功した。
こうしてウイグル自治区から北京政府まで、武装蜂起の発覚を遅らせようとしたのだ。

  しかし、これらの情報が4月5日のうちに漏れてしまったため、計画の実行を早めざるを得なかった。農民の計画はアフト県から25キロ東北、カシュガル市から8キロ南に駐在する“南疆軍区”を占領し、それから東トルキスタン全国に広げることだった。

 バリン農民は4月5日にアフト県を完全に占領し、南疆軍区のあるイェギシェヘル(Yengi Sheher)県に向かったが、このときには北京政府に発覚してしまったのだ。北京政府は驚き、李鵬、江沢民、劉華清を始め、農民蜂起を“反革命暴乱”と名づけ、早速弾圧するように侵略軍に命令した。

 カシュガル地区はウイグル民族の人口が多いため、侵略者はカシュガル地区に駐在する侵略軍を戦時編成にし、カシュガルから480キロ東に駐在するアクス地区に駐在する大部隊をカシュガル市とその周辺、アフトゥ県、バリン郷に派遣した。軍用ヘリコプター、戦闘機が4月6日の朝からカシュガルの空を飛んだ。戦車、大砲、軍用トラックなどで重装備の侵略軍部隊がカシュガル市を通ってアフトゥのバリンに向かって移動していたのである。

  4月5日から始まった闘いで、侵略者軍の多くの軍がせん滅され、北京政府は“ウイグル農民の武装動乱はコントロールできなかった”と中央テレビで報道した。4月6日から戦闘は激しさを増し、侵略者は部隊を増やし、軍隊を10万人に増派した。4月5日から9日まで激しい戦闘が続いた。
 侵略軍の兵士に理念はなかった。しかし、ウイグルの民は厳しい軍事訓練を受け、祖国を解放するために命をかけていた。彼らの放つ銃弾や砲弾は無駄になることはなかった。農民は軍隊、警察の車をことごとく爆発させた。このため、侵略軍は戦死者の遺体を毎日軍用トラックに乗せて、カシュガル市から15キロ南にある漢人死堂に運んで埋葬しなければならなかった。

 北京政府は増える一方の戦死者に頭を痛め、イエギシェヘル(Yengi Sheher)県に駐在する南疆軍区の第18団のウイグル兵士を強制派遣し、前線で戦うように命令した。オアシスと山地でおこった戦闘で、ウイグル兵士たち150人は前線に配置されたが、農民は大声で“私たちの目標はあんたたちではない、どいてくれ”などといいながら、ウイグル兵士の肩の上、足の間などから後ろにいる漢人侵略者の兵士を殺したのである。
 なすすべのなくなった北京当局は、ついに、ヘリコプター、戦闘機を飛ばし、バリン郷を空爆したのである。この空爆でゆりかごで寝ている赤ちゃんも、女性も、子供も皆殺しにされた。

 闘いの後、戦場に行った記者がゆりかごに7発、赤ちゃんに3発の弾が当たった画面を密かに報道したのである。

 空爆で武装蜂起は鎮圧された。ウイグル人は200人以上が犠牲となり、2千人以上が逮捕された。逮捕された農民のうちに200人以上は死刑になり、他は10年間~無期までの懲役となった。侵略軍の数千人が死んだが、江沢民は鎮圧にてこずったことを恥じたのか、6人の警察と1人のウイグル通訳が犠牲になったと報道し、世界に10万人の侵略軍隊を派遣したことと、ヘリコプター、戦闘機、戦車まで派遣し、空爆した事実を発表しなかった。

 この農民蜂起は鎮圧されたが、東トルキスタン国民の侵略者に対する意志、革命は世界に発表され、侵略者の本質が明るみにでた。東トルキスタン国民は国内や海外で今も独立運動を強めている。

  弾圧後、バリン郷の男性は少なくなってしまった。北京政府は侵略軍の兵隊を農耕の“手伝い”として派遣したのである。夫や父親が弾圧された女性はナイフを持って、侵略軍の兵士を畑で殺したり、報復を続けた。このような報復の連鎖は今も続いている。
 バリン郷農民武装蜂起について、後にさらに詳しくご紹介する。
(続く)


東トルキスタン情報センター
ウイグル太郎
2004年4月20日
 


© Uygur.Org  20/04/2004 14:38   A. Qaraqaş  日本語メール: uyghuristan@hotmail.com