カシュガル地区カルグリック県青年たちの蜂起
1981年1月12日、カルグリック(Qarghiliq)で農村地下組織の青年200人が、侵略軍の兵士、警察などに各農村で攻撃を始め、県内の各郷の漢人役人、警察、兵士などを殺した。さらに県城襲撃の準備を進めはじめた。
蜂起の前にカルグリックの各郷のモスクで愛国教育を行ない、“東トルキスタン国民の民主、宗教・文化の自由を得るためには、侵略者の中国人を追い出して東トルキスタン共和国を独立させなければならない”などのスローガンを掲げて、反中運動を始めたのである。
当時、当局はカルグリック県など東トルキスタンの各地区でモスクを閉鎖したり、壊したり文化消滅政策を行っていた。市民はこれに反発し、当局に宗教信仰の自由を要求したが、無視された。このため、兵士、警察、役人などを殺し、独立を実現させようとしたのである。
蜂起後、当局は大部隊を派遣し、この運きを鎮圧してしまった。
ペイズワット県民の蜂起
東トルキスタン国民のモスクを閉鎖し、宗教家、インテリらを逮捕した中国侵略者政権に、市民の不満は募る一方だった。侵略者政権の横暴をやめさせるため、1981年5月27日、カシュガル地区ペイズワット(Peyziwat)県の250人のウイグル青年が密かに集まって、ペイズワット県“人民武装部”を占拠し、多くの弾薬、武器を入手した。さらに役人、警察などを至るところで殺し、ペイズワットの北側の山地の森林に移り、追いかけてきた当局の軍と戦って多くの侵略者をせん滅した。
侵略軍は彼らを包囲したものの、完全に鎮圧することができず、にらみ合いの状態が一週間続いた。共産党侵略者はペイズワット県の権威ある宗教家を脅し、戦場へ連行して、青年たちに呼びかけさせた。宗教家はスピーカーで“戦闘を中止してくれ。今、こちらの包囲を解くから出てきなさい。あなたたちの要求はわかった。解放軍は決してあなたたちを罰しない、逮捕しない”と言わざるをえなかった。もちろん、これは青年たちを騙すための罠だった。
敬虔なイスラム教徒は、子どもから大人まで、宗教家を非常に尊敬し、その言うことには耳を傾ける。青年たちは宗教家の言葉を素直に受け入れ山を降りたが、卑怯な手段で平気で人を騙し、生まれつき約束を守らない人類の悪魔である共産党侵略軍は彼らを拘束し、軍事トラックに乗せて、刑務所に入れ、残酷な拷問後、全員殺害してしまったのである。
“漢族のためだけの農地改革”をめぐる紛争
1950年代から60年代にかけて東トルキスタン国民の耕地、草原、地主の土地、財産、灌漑用水などが中国共産党侵略者により没収されてしまった。これらの大事な財産は侵略軍や“生産建設兵団”と呼ばれる侵略者軍に与えられたのである。これに抵抗した東トルキスタン国民は労働改造所や刑務所に入れられ、殺害されてしまった。
東トルキスタンの河川の流域部などの肥沃な土地、財産などが、侵入してきた侵略者に与えられ、灌漑用水の使用権も侵略者に握られた。
1980年代になると 鄧小平の指示により“農村改革”が行なわれ、“家庭連産請け負い制度”が実施され、土地の使用権が農民に与えられた。しかし、いちだんと土地が肥沃で、年間降水量が250mmを超える天山北側の広い土地、草原、河川は侵略軍が管理した。
豊かな地域は侵略者に独占されてしまい、東トルキスタン国民に還元されることはなかった。1981年5月までに、東トルキスタンの77県で侵略者の過分な強盗行為に不満を持って、ウイグル農民が各地の政府に平等に分配するよう要求した。要求は無視され、逆に、当局は漢人の利益を守るためにウイグル農民を逮捕するに及んだ。これに堪え兼ねた農民、牧民は棒、鎌、鍬、斧などの農業道具を持ち、侵略者を襲撃した。多くの漢人、ウイグル、カザフ人はこの衝突中に負傷、死亡したのである。事件の後、多くのウイグル人、カザフ人は逮捕され、侵略者の利益が保護された。
侵略者が軍事、政治、経済、文化に関する実権を握っているため、ウイグル、カザフ人はもともと自分たちのものであった土地や水を彼らから購入しなければならなかった。東トルキスタンの石油や石炭で発電された電気も、水力発電所の電気も買わなければならない。このため、東トルキスタン国民はだんだん貧しくなり、侵略者が豊かになってきている。
これにウイグル人の反感は高まり、1980年トルファン地区トクスン(Toqsun)県、タルバガタイ地区シホ(Shiho)県、マナス(Manas)県、ボルタラ地区、ウルムチ市、アクス地区、カシュガル地区、ホテン地区で衝突と流血事件が繰り返されたのである。
1981年4月ボルタラ地区に駐在する“生産建設兵団”第五師団の侵略者は灌漑用水をコントロールして、漢族農民にばかり水を流し、ウイグル農民に与えることはなかった。農民らは現地の政府、裁判所、北京政府まで訴えたが、無視されてしまった。不満を持った農民が200人以上集まって侵略者へ反対運動を起した。事件後、ウイグル農民は弾圧、殺害されてしまった。
1950年代から今まで土地、草原、灌漑用水に関する闘いが絶えない。漢人のウイグル人に対する一方的な搾取、それに反対したウイグル人への暴力・弾圧という悪のスパイラルがつづいているのだ。(続く)
東トルキスタン情報センター
ウイグル太郎
2004年4月13日
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