文化大革命時期の政治組織
1966年5月、毛沢東の指示により“5.16通達”が出され、有名な“プロレタリア文化大革命”がはじまった。この政治運動は1976年10月の“四人組”失脚まで約10年間続いた。毛沢東が劉少奇、鄧小平を始め、有能な幹部を次々と殺害する政治内乱状態となった。国家機関などが麻痺状態に陥った。
当時、ファッショ民族主義者の王恩茂氏が東トルキスタン侵略政権を握っていた。文化大革命が始まった途端に、王恩茂はウイグルインテリ、宗教家、東トルキスタン独立組織のメンバー、伝統的な文化を重視する人物、及びウイグル国民を批判し、次々と逮捕しはじめた。同時にイスラム教のコーランとその解釈の本、ウイグル民族史、小説、詩集、叙事詩、道徳などについての書籍を集め、燃やしてしまったのである。多くのモスク、宗教学校などが閉鎖されてしまった。これはウイグル文化に対する第一回大消滅行為である。第二回は2002年の春から始まって、百万冊の書籍を燃やしてしまったのである。
1967年、東トルキスタンでは5000組以上の民間組織が成立していたが、“王恩茂に反対”、“王恩茂を支持”、“どちらも否定”という3つの流れができてきた。このチャンスに合わせて、東トルキスタン国民は、抵抗運動を広げて武器、火薬を集めるように動員された。独立組織の指導者は、解放闘争の戦術を決めた。東トルキスタンの大きな町では大学、専門学校、高校の学生と教師を中心にした密かな武装グループ、宣伝グループを組んだ。市民、職員、労働者などが武器、弾、火薬を集め始めた。広い農村地区では農民が動員され、全面的な武装蜂起の準備をした。
東トルキスタンイスラム党の宗教家は青年たちを集めて、宗教、愛国、独立運動に関する教育を行った。その後、カシュガル、ホテン、アクス、ウルムチ、グルジャ、ボルタラ(中国語で博爾塔拉)地区などで民間団体の名目で秘密組織を作り、国民に宣伝を強めて、武装蜂起の準備を進めた。市民、労働者、農民、牧民が組織の主力軍となったのである。
1969年東トルキスタン人民革命党が、天山の北で行動すると見せかけて敵をおびき寄せ、実際は南を攻撃する陽動作戦を行なう決定を出したのである。
隣国の援助も得るために、東トルキスタン人民革命党がアイテン(Ayten)、アビット(Abit)らを中央アジア、パキスタン、インド、アフガニスタンなどに派遣した。国境周辺のメンバーが入出国の便宜を図った。彼らは国境を3回出入りして、連絡を取り合った。中央アジア、パキスタン、アフガニスタン、インドの組織が軍事援助をする約束をしたのである。6月28日に武装蜂起が決められた。
武装蜂起の計画は天山の北側のサンジ(ウイグル語でYengi Baliqイェギバリック、中国語で昌吉Changjiと呼ぶ)、カラマイ、シヘンゼ(中国語で石河子)、グルジャ、ボルタラ、チョチェック、アルタイ地区などまで伝えられた。まず、当局の軍事基地、警察、政府機関を爆破し、カザフスタンとの国境をオープンし、敵軍の注意力を北に引き付ける。
同時に天山の南ではカシュガルを中心に当局の各県にある“人民武装部”を占領し、武器火薬を入手する。そして、カシュガルの西北のウルグチャット県(キルギスタンとの国境地帯)を攻撃し、国境をオープンし、カシュガルに戻りさらに攻撃を続け、カシュガル、ホテン、アクス地区などの広い農村で同時に武装蜂起し、当地にいる侵略軍を消滅する。最後はカシュガル市に入り、東トルキスタンの独立を世界に発表。アフガニスタン、パキスタン、インドなどから武器を買い、ウルムチに向かって進撃し、東トルキスタン全国を開放する予定だった。
蜂起の前に捜査が及んだ一部のグループは外国に隠れ、残りの一部は農村に隠れた。組織のリーダーはカシュガルに移った。経験豊富な東トルキスタン戦士、指揮員などはカシュガルに配された。
残念なことに、1969年6月25日、東トルキスタン国民の全面的な武装蜂起の3日間前に、外国の組織がこれらの革命計画を毛沢東に売ってしまった。驚いた毛沢東が6月25日の夜、解放軍、生産建設兵団など2百万人の侵略軍を動員し、東トルキスタンの15の県で突然、大量逮捕を始めた。交通が侵略軍によって封鎖され、“人口検査”の名前で行われた国家テロ行動で、ウイグルインテリ、知事、宗教家、年配の幹部、革命者、教師、学生などが逮捕された。すべての市民が逮捕され、政府機関、劇場、映画館、学校、倉庫などに拘束された。
東トルキスタン人民革命党の3万2千人のメンバー以外、市民も3万人、合わせて6万2千人が逮捕されひどい拷問が行われた。全ての大学生、大学の教師などは刑務所に入れられたのである。各市で一ヶ月の戒厳令が布かれた。
逮捕の前に各組織に秘密を守る教育が行われたため、逮捕されたメンバーがほかのメンバーを白状することはなかった。
20年間、当局は東トルキスタン人民革命党の名前を隠してきたが、この後は内部では公開するようになった。東トルキスタン人民党のメンバーに“パンイスラム主義”、“パン突厥主義”、“民族分裂主義”などの罪名を貼り付けて、秘密裁判を行い、有罪にして処刑したのである。
武装蜂起の前に、外国の組織によって行動計画が侵略者に漏れたため、カシュガル本部のアフヌップ(Ahunup)、ミジット(Mijit)司令官の部隊が計画よりも先に蜂起を開始したが、カシュガル地区マラルベシの北側の三叉路辺りで侵略軍に包囲されてしまった。指揮部隊はカシュガル市から150キロ東北のアトゥシ(Atush県)のカラジュル(Qarajul郷、キルギスタンの国境に近い山地)で追って来た侵略軍と戦って、多くの侵略者を殺したものの、一部は現場で亡くなり、数人が捕虜になってしまった。
アフヌップ、ヘイルッラ(Heyrulla)、オスマンジャン(Osmanjan)、ムハメットイミン(Muhemmetimin)、ヘイリンサ(Heyrinsa女性)などが血が最後の一滴になるまで、侵略者と戦って犠牲となった。アフメットジャン・ムニリ(Ehmetjan
Muniri)、ミジット・サキ(Mijit Saqi)、ロズィ・ヘキム(Rozi Hekim)、ムハメットイミン(Muhemmetimin)などの指揮員が捕虜になり、カシュガル市で処刑された。
1970年5月29日ウルムチで公開裁判会議が開かれ、その8年前のイリ-チョチェック蜂起の後逮捕された東トルキスタン共和国の指導者であるトフティ・クルバン(Tohti Qurban)、ニヤズ・オメル(Niyaz Omer)、アブドゥレヒム・バキ(Abdurehim Baqi)、エメット・アフン(Emet Ahun)、エミン・イクラム(Emin
Ikram)、ホシュル・カリ(Hoshur Qari)、イミン・エイサ(Imin Eysa)、ムハメットイミン・バイ(Muhemmetimin
Bay)、トップだったドリクン・イブラヒム(Dolqun
Ibrahim)など30人が処刑された。それから今回の革命の指導者、ウイグル自治区の副主席であったムハメットイミン・イミノフ(Muhemmetimin
Iminov)が病院で暗殺されたのである。
この事件の後、東トルキスタンで血生臭い弾圧が6ヶ月続いたのである。中央から僻地まで、役所から学校まで、侵略軍によって管理されるようになった。県レベルの役所に死刑の権限が与えられた。県長がサインすれば簡単に東トルキスタン人を死刑することが出来るようになった。多くの国民が刑務所の拷問で殺害された。刑務所に入って10~15年も経つころには、だれでも繰り返される拷問による死を遂げた。
グルジャでは、わずか一日でアバベキリ・ザヒル(Ababekri Zahir)、モミン・カリ(Momin Qari)、アブドゥジャッパル(Abdujappar)、サービル(Sabir)、イスマイル・アブドゥゲニ(Ismayil
Abdugheni)、ホジャアフメット(Ghoja Ehmet)、ドングメメット・カディル(Dongmemet Qadir)、アスルカン(Asilqan)、ムカン(Muqan)、ヘニペ(Henipe女性)、ユスップ・ムサ(Yusup
Musa)などが裁判なしで死刑にされたのである。
イリ地区のトックズタラ(Toqquz tara)県でレジェップ(Rejep)、アブドゥケリム(Abdukerim)、ニルカ(Nilqa)県でアフメットジャン・オメル(Ehmetjan
Omer)、モンゴルクレ(Mong'ghul kure県)でカイダル(Qaydar)、テケス(Tekes県)でハキムムヘッメット(Hakim
Muhhmet)などが殺されたのである。その後、東トルキスタン独立組織はより深く地下に潜らねばならなかった。
(続く)
東トルキスタン情報センター
ウイグル太郎
2004年4月7日
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